2026/06/13
外資系企業を変革 バリキャリとヘッドハンターの夫婦が農家へ 心身の限界で響いた夫の言葉
■熱海市の農園「たからのはたけ」 説田さん夫婦が2022年スタート
東京で企業変革の最前線に立っていた夫婦が、今は熱海の山あいで土に向き合っている。静岡県ゆかりの人たちが歩んできた人生をたどる特集「My Life」。第23回は、熱海市にある農園「たからのはたけ」を営む説田慶樹さんと有佳さん夫妻。国内外のクライアントと向き合う日々から一転、2人は農業の道を選んだ。
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観光客でにぎわう熱海駅から約7キロ。車で15分ほど勾配を上ると、熱海市の泉地区にたどり着く。神奈川県湯河原町との県境に近く、神奈川県内と認識する人もいるエリアだ。相模湾を一望できる小高い丘にある農園は、「たからのはたけ」と名付けられている。
今から4年前、この農園を引き継いだのが、熱海市に移住した説田さん夫妻だった。つばの広い帽子や首にタオルを巻いた姿が“制服”となった2人は、こう口をそろえる。
「熱海で農業をやるとは思っていませんでしたね」

熱海市で「たからのはたけ」を運営する説田さん夫妻
■人事・組織コンサル会社に勤務 国内外の企業変革サポート
妻・有佳さんは、いわゆる“バリキャリ”だった。PRや広報の仕事を経て、当時は珍しかった人事・組織コンサルの企業に勤務した。その後、独立して東京で起業。誰もが知る世界的なメーカーをはじめ、外資系を中心に国内外の企業を変革するプロジェクトを進めた。
有佳さんを右腕として支えたのが、夫・慶樹さんだった。ヘッドハンティングの部署に属し、クライアントとなる企業の課題を解決する人材を探して紹介する役割を担った。
農作業をしている2人は息がぴったりで、そばで会話を聞いているのも心地良い。農家に転身する前から、互いが誰よりも信頼できるパートナーなのは変わらない。ただ、意外にも性格は対照的だという。人一倍のコミュニケーション能力が問われるヘッドハンターを長年務めてきた慶樹さんが自己分析する。
「自分は元々、人と話すのが苦手でした。サラリーマンには向かないので、経営者になろうと学生の時から考えていました。でも、経営者になるためには、人付き合いや営業が大切です。苦手を克服しようと思って選んだキャリアでした。農作業は好きで得意なことなので、畑で365日過ごすように言われても幸せです」

駿河湾を望む高台にある「たからのはたけ」
■「もう無理かも…」 妻・有佳さんの心身が限界
慶樹さんの性格について、有佳さんは「真っすぐで頑固」と表現する。社交辞令を好まない素直さは時に、ビジネスではハラハラする場面を引き起こした。有佳さんは笑顔で回想する。
「コンサルの仕事をしていた時、クライアントが明らかに間違っているケースもありました。私は疑問を感じながらも上手く対応しているにもかかわらず、彼は良い仕事をするために相手の間違いを指摘して『改めていただけないなら、一緒にできません』と直接伝えます。クライアントが怒って、出禁になったこともありました。ただ、不思議と許されるんです。時間が経ってから、『怒ってしまいましたが、慶樹さんに仕事をお願いしたい』と連絡がきます。私だけ気をもんで、相手に謝罪した時間を返してもらいたくなりますよね」
一方、有佳さんは社交的でコミュニケーション能力に長けていた。コンサルをしていた頃は、クライアントの企業に深く入り込み、その企業で働く従業員の家族や同僚のことまで想像して任務を遂行した。ただ、相手の考えや気持ちを察する生き方は、心身への負担が蓄積されていく。そして、限界を超えた。
「ものすごい数の人たちの面談をして、色々な話を聞いているうちに、疲れ切ってしまいました。面談した相手の顔と名前が一致しないほど脳がパンパンになり、ミスも増えていきました。心身ともに、もう無理かもしれないと思いました」

キウイの受粉をする有佳さん
■「日本を離れてみたら」 妻の背中を押した夫・慶樹さんの言葉
慶樹さんも、有佳さんの異変に気付いていた。無理をして頑張りすぎる有佳さんの性格も知っている。自宅で休養させても仕事が頭から離れず、逆効果になると容易に想像できた。心身を回復させるには大幅な環境変化が必要だと考え、有佳さんに提案した。
「アジアと日本の架け橋になることがやりたいと言っていたよね。日本を離れてみたらどう?」
起業から約15年経った2013年、有佳さんは大きな決断をした。慶樹さんの言葉に後押しされ、マレーシアへ渡った。
「忙しさに追われて忘れかけていた自分の希望を彼が思い出させてくれました。ただ、私に何ができるのか、何を求められているのか、実際に行ってみないと分かりません。まずは、現地に行ってみようと思いました」
有佳さんは東京にある自身の会社を慶樹さんに任せ、小学生の娘とともにマレーシアでの生活をスタートした。選んだ場所はジョホールバル。東京の生活に慣れていた娘に、あえて不便な生活を経験させる狙いがあった。

発送用に湘南ゴールドを箱詰めする慶樹さん
■マレーシアで気付いた原点 次のキャリアに選んだ「農業」
有佳さんはマレーシアと日本を行き来する生活をしながら、次のキャリアを模索していた。その中で、心を奪われたのが農業だった。ジョホールバルから約550キロ、車で6時間ほどの距離にある高地・キャメロンハイランドを観光した際、「これだ」と直感した。目にしたのは、一面に広がる紅茶や野菜の畑だった。日本人に有機農法を学んだマレーシア人が、農業を営んでいた。
キャメロンハイランドに何度か訪れるうちに、有佳さんは現地の人たちと親しくなった。マレーシア人は日本人に敬意も抱いていたという。
「一番びっくりしたのは、自分の祖母が目の前で日本兵に殺されたというマレーシア人です。そんな経験をしているにもかかわらず、戦争だったから仕方ないと受け止め、日本も日本人も大好きと話していました。マレーシアの人たちは現在の日本に感謝し、日本への憧れも持っています。これは、私たちよりも年配の世代の方々がマレーシアに貢献していたからです。私は、その恩恵を受けているだけではいけないと強く感じました」
娘が日本の中学校へ通うために帰国するタイミングで、有佳さんはキャメロンハイランドへ引っ越した。現地の人たちと食事をともにし、畑仕事で汗を流す毎日。そこには、みんなで助け合うコミュニティの礎があった。日本ですり減った有佳さんの心は、みるみる回復し、エネルギーに満ちていく。心にゆとりが生まれ、頭の中も整理されたことで、自分の役割や本当にやりたかった仕事も明確になった。
「マレーシアで素朴な優しい人たちと出会い、私は次の世代に何かを残したい気持ちを持っていたことを思い出しました。それができていない生き方をしていたので、ストレスが蓄積してパンクしたのだと思います」

二人三脚で農業の道を歩む慶樹さんと有佳さん
■ワサビで事業化へ 準備中に“まさかの事態”で暗転
今の自分があるのは、上の世代の人たちのおかげ。今度は次世代の人たちの幸せにつながる役割を果たすことが、自分の使命と有佳さんは考えた。田んぼや畑を継承していく農業は、まさに世代の架け橋となる仕事。涼しくて水が冷たいキャメロンハイランドの特徴を生かし、有佳さんはワサビの栽培に挑戦すると決めた。
ワサビの試験栽培は順調だった。マレーシア国内や隣国では、ワサビの需要が高い。流通しているのは練りワサビやチューブのワサビで、生のワサビを市場に出せば収益化できるビジョンも見えていた。
事業化や定住に向けて、住まいのリノベーションや就労ビザの申請も進めた。人間関係も構築し、マレーシアで腰を据えて農業に取り組む準備を着々と整えていった。しかし、状況は暗転する。自分たちではコントロールできない予期せぬ事態によって、先が見えない生活に陥ってしまうのだった。【後編に続く】
(間 淳/Jun Aida)








