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2025/11/19

“才能ゼロ”からセンバツ優勝 唯一の武器に異変で崩れ落ちたキャリア 「試合が怖い」

■常葉大菊川・石岡諒哉監督 小学4年生で野球人生最初の挫折

華やかな経歴は、才能に恵まれたエリートと同義とは限らない。静岡県ゆかりの人たちが歩んできた人生をたどる特集「My Life」、第21回は常葉大菊川高校野球部の石岡諒哉監督。小学4年生で野球センスのなさを思い知らされ、社会人では努力で越えられない壁に直面した。今も夢に見るほどの苦しさから一度は野球が嫌になったが、選手の成長を間近に見られる指導者の喜びも実感している。

 

【写真で見る】石岡監督とともにセンバツ優勝 ”甲子園史上最高の二塁手”は福祉の道へ

 

アマチュア野球界のど真ん中を歩いてきた。母校を指揮する石岡諒哉監督は、現役時代に常葉菊川(現:常葉大菊川)で正捕手として2007年にセンバツで優勝。卒業後は社会人野球の強豪・ENEOSに進んだ。その後は新日鉄住金東海REX(現:日本製紙東海REX)でプレーし、現役引退後は指導者の道を選んだ。浜松開誠館のコーチを経て、常葉大菊川では2020年に監督就任。チームを甲子園に2度導いている。

 

野球経験者はもちろん、野球に詳しくない人でも分かる輝かしい経歴。だが、石岡監督は「エリートとは程遠い野球人生」と振り返る。

 

「運動神経が悪くて、小学生の時から自分には野球センスがないと分かっていました。小学4年生で最初の挫折を味わいましたから」

試合中に円陣を組む常葉大菊川の石岡監督

■「野球センスがないから仕方ない」 忘れられない父親の一言

石岡監督は自身の運動能力を「平均以下」と評価する。鉄棒では逆上がりができずに猛練習し、なわとびは二重跳びの習得にも苦労した。足も遅かったという。野球で最初の挫折を経験したのは小学4年生の時だった。父親からの一言が忘れられない。

 

「お前には野球センスがないから仕方ない」

 

石岡監督は小学1年生で野球を始めた。チームに同級生はおらず、2学年上の選手たちと一緒に練習していた。小学生の2歳差は大きい。石岡監督は周りよりも自分が上手くできないのは当然だと思っていた。ところが、その認識が一転する。

 

「小学4年生から野球を始める子どもが多く、チームに同級生が増えました。自分の方が何年も前から野球をやっているのに、始めたばかりの同級生の方が上手いんです。ショックでしたね。ただ、父親の言葉があったから、その後に努力できたと思っています」

 

■強肩を武器にセンバツ優勝 社会人の名門ENEOS入社

石岡監督は、同級生に運動能力やセンスの差を見せつけられた。自分の方が経験は圧倒的に長いのに、打力も守備力も走力も負けてしまう。父親の言葉で厳しい現実を知り、「周りに勝つには人一倍努力するしかない」と悟った。

 

センスには恵まれていなかったかもしれない。だが、石岡監督には「努力を続ける才能」があった。父親が自宅に手作りしたネットに向かって、毎日ティー打撃を繰り返した。そして、他の選手より突出した能力もあった。それは、「肩の強さ」だった。

 

「理由は分かりませんが、投げることだけは最初から得意でした。肩の強さがあったから、社会人まで野球を続けられたと思っています」

 

強肩を武器に、石岡監督は捕手として存在感を示した。常葉菊川でも扇の要として自慢の肩で何度もチームのピンチを救い、センバツで優勝を果たした。

 

全国制覇を果たした石岡監督は、大学や社会人チームからも注目される選手となった。その1つが、社会人野球の頂点を決める都市対抗野球で最多12回の優勝を誇るENEOS。高校に続いて、社会人でも日本一に貢献する決意で入社した。しかし、これが苦しみの始まりとなった。

 

「社会人1年目から送球する際に違和感がありました。2年目になると状態は悪化し、思ったように投げられなくなりました。イップスでした」

ウエイトルームで選手の動きをチェックする石岡監督

■イップス発症 4年目のシーズンオフに“戦力外”

イップスは今までできていた動作が思い通りできなくなる現象で、精神面や心理面に要因があると言われている。プロ野球選手でも、イップスになる選手は少なくない。石岡監督のプレーに狂いが生じた原因は明確ではない。ただ、高校から格段にレベルが上がった社会人野球で、より精度の高い送球を求められる重圧が影響した可能性もある。

 

キャッチボールではイップスは表れなかった。だが、ノックになると送球は乱れ、試合になると一層状態が悪くなる。相手走者に二塁へ盗塁された際、送球がセンターの定位置まですっぽ抜けたりすることもあった。

 

当時は今ほど、イップスが一般的ではなかった。石岡監督は「どうすれば治るのか分かりませんでした。練習で改善が見られると試合で使ってもらいましたが、試合に出るのが怖かったです」と明かす。

 

ENEOS入社4年目のシーズンオフ、チームから来シーズンの構想から外れていると告げられた。チームの戦力になれていない以上、覚悟はしていた。もう野球を辞めるしかないのか。それとも、環境を変えれば状況は変わるのか。石岡監督は悩んだ末、東海REXへの移籍を決めた。

 

■移籍後も治らないイップス 過度な練習で右肘が限界

移籍1年目、練習では送球が安定していた。東海地区を中心に社会人チームが優勝を争うJABA静岡大会では、スタメン出場のチャンスを得た。しかし、悪夢に襲われる。石岡監督が記憶をたどる。

 

「地元の静岡で開催される大会でスタメン起用されてうれしい反面、心配はありました。試合中盤に盗塁されて二塁へ送球した際、マウンドの辺りでバウンドし、二塁まで3回もバウンドしました。そこから記憶がありません。その試合では複数安打を放っていましたが、二塁送球の場面しか思い出せないくらいショックを受けました」

 

イップスの不安を払しょくするには練習しかない。そう考えた石岡監督は連日、送球練習を繰り返していた。1日400球を超える日もあった。ENEOS時代からイップス克服を目指して酷使した右肘は、限界に達していた。病院に行くと、右肘に2カ所の剥離骨折と尺骨神経麻痺が判明。リハビリ生活を余儀なくされた。

 

「ドアノブを回すだけでも痛み、私生活にも支障をきたすほどでした。でも、ENEOSや東海REXの関係者の方々のおかげで移籍させてもらったのに、痛いとは言えませんでした」

監督としてもセンバツに出場

■現役引退後も送球ミスの夢 人一倍の苦労が指導者の財産

心身ともにボロボロになった石岡監督は東海REXで3年経ったシーズンオフ、現役引退を決めた。ENEOSを含めて計7年間の社会人野球について「何もできずに終わってしまいました。努力では、どうにもできないことがあると痛感しました。唯一の武器だった肩が不安材料となり、打力や走力で巻き返す器用さもありませんでした」と回想する。社会人では、野球をする苦しさだけが残った。

 

「いまだに自分が捕手をしていて、送球が上手くできない社会人時代の夢を見ます。イップスにならなかったら、どんな野球人生を歩んでいたのか見たかった部分もあります。現役引退後は草野球もしたくないほど、野球が嫌になりました」

 

東海REXを退社後は、縁あって指導者の道へ進んだ。2020年から母校の監督を務め、2023年と2025年のセンバツに出場を果たしている。

 

「私は指導者に向いているタイプではないかもしれませんが、今は選手の成長を見るのが楽しくてグラウンドに来ています」

 

野球センスのなさを自覚していながら、常葉菊川では日本一を成し遂げた。人一倍の努力で手にした成功体験もあれば、イップスの苦しみや挫折も味わった。決して平坦ではなかった選手時代の時間は、指導者としての武器となる。

 

(間 淳/Jun Aida

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