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2023/01/01

入社直後に「失格」のアナウンサーからテレビ局の取締役 第2の人生はカフェオープン

テレビ局を退職後に静岡市でカフェをオープンした大長さん

■入社直後に「アナウンサー失格」 元静岡朝日テレビ・大長克哉さん

入社後すぐに「アナウンサー失格」の烙印を押されたどん底のスタートから、取締役まで務めた。第2の人生に選んだのはカフェオープンだった。それぞれが歩んできた人生をたどる特集「My Life」。第8回は、静岡県のテレビ局を退職後に静岡市駿河区でカフェを始めた大長克哉さん。自身が若い頃、音楽や芸術に触れた喫茶店のように、地元のアーティストをサポートする文化の香りがするカフェを描いている。

 

昨年7月にオープンしたカフェ「soraniwa」にはジャズが流れる。コーヒーの香りが店内を包み、大きな窓からは柔らかい光が降り注ぐ。店主の大長さんが過ごしてきた時間とは対照的に、ゆっくりと時が過ぎていく。

 

名前や顔を見れば、50代以上の静岡県民は懐かしく感じるかもしれない。大長さんは大学卒業後、当時開局して間もなかった静岡朝日テレビに入社した。新入社員のアナウンサーは同期の女性とともに、大長さんが第1号。長年、県内ニュースや情報番組の顔だった。

 

アナウンサーから報道・制作局や編成局の管理職などを経て、最後は取締役まで務めたテレビマンとしての歩みは真っ直ぐで、常に日が当たる場所にいたように見える。しかし、大長さんは入社当時を恥ずかしそうに回想する。

 

「失敗の連続で、入社後すぐにアナウンサー失格の烙印を押されました。あまりにも向いていないと感じて、1年目に会社を辞めようと考えていました」

店名の通り開放感のある空間と緑が特徴的なカフェsoraniwa

■記念受験で合格 快挙のはずが「いばらの道」

大長さんはアナウンサー志望ではなかった。大学時代にアナウンススクールに通っていたわけでも、憧れのアナウンサーがいたわけでもない。大学時代の就職活動でマスコミを受験したのは、静岡朝日テレビの1社だけ。実は“記念受験”だった。

 

「東京の大学に通っていましたが、地元で就職しようと思っていました。金融機関から内定をもらっていたのですが、興味がある分野ではないので、働きたくないとモヤモヤしていました」

 

 テレビ局の採用試験を受けたきっかけは、アルバイト先の人からの勧めだった。スポーツ用品店でアルバイトをしていた時に「アナウンサーを募集しているから受けてみたら。受かると思うよ」と“根拠のない”後押しを受けた。その気になって必要書類を提出。後日、面接に行くと、すぐに場違いだと気付いた。

 

会場にいるのはアナウンサーへの強い憧れがある人や、アナウンススクールに通う人ばかり。大長さんは他人事のように「こういう人がアナウンサーになるんだろうな」と他の受験者に感心していた。

 

男性アナウンサーの採用は1人。受かるはずがないと思っていた中、狭き門を突破したのは大長さんだった。“快挙”を成し遂げたはずだったが、ここからいばらの道へと入っていく。

大長さんが選んだジャズが流れる店内

■「恥ずかしくて涙が出た」 新人研修で笑いものに

新人アナウンサーには系列局の研修がある。入社2か月前の2月、大長さんはキー局のテレビ朝日で1か月間修行を積んだ。参加するのは自分と同じ、これからキャリアをスタートさせるアナウンサーたち。だが、すでに力の差があった。声の出し方をはじめ、原稿の読み方、表現力など、全てが劣っていると痛感した。

 

さらに、屈辱は続く。3月からはセンバツ高校野球の期間に合わせて、大阪にある朝日放送で研修が組まれていた。目的は実況の練習。まずは各アナウンサーが自分の実況をカセットテープに録音して、全員の前で披露する。

 

順番が回ってきた大長さんがテープを再生すると、会場から笑いが起こった。そして、研修の担当者から「笑われて恥ずかしくないのか」と怒号を浴びせられる。

 

「すみませんと謝り続け、恥ずかしくて涙が出ました。自分のレベルの低さを知って、自信を失ったまま4月の入社を迎えました」

 

静岡朝日テレビ開局後、初の新人アナウンサー。周囲は期待を持って大長さんを迎え入れた。同期の女性アナウンサーとローテーションを組んで、数分間の定時ニュースを任された。

 

研修の内容を考えれば、入社後の姿は想像できた。周りの注目や期待は、すぐに失望へと変わった。失敗の連続だった大長さんは、ゴールデンウィークまで再びテレビ朝日へ研修に行くよう命じられた。

 

アナウンス技術は簡単に身に付くものではない。大長さんは「あまりにも向いていないので、入社1年目に会社を辞めようと思いました」と振り返る。ただ、アナウンサー不足の台所事情もあって、失敗しても経験を積む場は十分にあった。さらに、人手不足はディレクターにも及んでいたため、アナウンサーをしながらディレクター業務もするようになった。これが、大きな転機となった。

カフェでは手作りスイーツも人気

■「王道では勝ち目がない」 周りの評価を変えたフットワーク

「アナウンサーの王道では、どうやっても勝ち目はありませんでした。ただ、フットワークの良さは長所で、テレビの仕事自体は好きでした。色んな業務があって大変でしたが、アナウンサー1本の環境ではなかったことが結果的に良かったと思っています」

 

大長さんは積極的に現場で取材し、原稿の執筆、撮影、編集までこなした。次第に現場での強さが評価され、周囲の目が変わってきた。特に事故現場や災害現場で大きな戦力になった。

 

原稿を読む技術だけを見れば平均点にも達しなかった。しかし、自らの足で稼いだ情報の量と質は、視聴者を引きつけた。ドキュメンタリー番組の制作にも没頭し、賞を獲得するまでの実績を残した。

 

アナウンサーになって5年目には、平日の帯番組のMCを任された。その後も、ニュースキャスターや今も続いている夕方の情報番組のMCを務め、静岡朝日テレビの看板アナウンサーとなった。表舞台を離れてからは、報道・制作局や編成局で局長を歴任。

 

あっという間に過ぎた40年。気付けば、入社直後に失格の烙印を押されたアナウンサーは取締役になっていた。「人生どうなるか分からないものですね」。数々の失敗を思い出しながら、表情を崩す。

 

62歳でテレビ局を退職してから選んだ第2の人生も、「どうなるか分からない」まま歩み出した。これまでのキャリアとは縁のないカフェオープン。実は、10代の頃に憧れていた仕事だった。【後編に続く】

 

(間 淳/Jun Aida

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