2026/07/24
大人の事情で2年でクビ 野球教室では“エース” 元オリックス選手「下手な子の味方に」
■焼津市出身の庄司大介氏 2年で戦力外に球団側から謝罪
プロ野球界で実績を残すことはできなかったが、確かな存在感を示した部分もあった。静岡県焼津市出身で元オリックス外野手の庄司大介さんは、2000年ドラフト9位でプロ入り。2年連続で1軍出場が1試合だけにとどまり、2002年オフに戦力外通告を受けた。
正捕手でセンバツ優勝 監督でも甲子園出場 輝かしいキャリアの裏には苦労と挫折が…
2002年シーズン後の秋季練習。庄司さんは翌年の強化メンバーに選出され、若手に交じって汗を流していた。3年目の飛躍を期して練習していたが、急きょチームの方針が変更されたという。当時は育成選手制度がなく、支配下選手の枠が限られるために突然、翌年の契約を結ばない旨を通告されたのである。
「10歳ほど年下の選手と一緒にきつい練習をしていたんですけど『来年度の強化メンバーってことは、来年の契約が決まっている。良かったやん』と言われていたんです。それが急にクビになった。いろんな大人の事情があったみたいで、納会の時には球団の方から『クビを止められなくて悪かった』と謝られました」
2年間で1軍出場はわずか2試合。ただ2軍では中軸を担い、通算136試合に出場し、2002年7月24日のダイエー戦で斉藤和巳投手から本塁打を放つなど、好投手から一発を放つことも多かった。さらにファンサービスは誰よりも注力。サインには可能な限り応じ、試合前の野球教室などファンとの交流会には全て出席していた。

現在は都内の事務所で買取事業などの仕事をしている庄司さん
■積極的なファンサービス 2軍のヒーロー
当時のオリックス2軍は「サーパス神戸」の名称で活動。庄司さんは「サーパスのヒーローでした」と振り返る。試合前に開催されることが多かった野球教室。ほとんどの選手が試合に向けた準備を優先したいため消極的だった中、嫌な顔を全く見せずに時間いっぱいまで対応を続けていたそうだ。
毎回、フル参戦していたことから「野球教室のエースでした」と自任する。静清工(現・静清)から国士舘大に進み、社会人野球の河合楽器でも3年半プレー。苦労を重ねてプロ入りしただけに「応援してくれてありがとう、みたいな感じでやっていました」とファンの応援に感謝する姿勢を忘れなかった。
当時、庄司さんのファンだった子どもとは、今も連絡を取り合っているという。プロ野球界を離れて20年以上たった現在は野球教室の機会もなくなっているが「呼ばれたら行きたいですよ。下手な子に教えたいんです」と意欲は衰えていない。
現役引退後は不動産会社や生命保険会社などで営業担当を経験。その後、オリックスにドラフト同期入団した高見澤考史さんが経営する野球塾で小中学生の指導に携わった。そこではあえて、球を怖がるような初心者の担当を買って出たと回顧する。
「みんなが『あいつ、うまいな。センスあるな』という子は、教えなくてもうまい。うまいと自覚しているから、大して話も聞かない。それだったら『ボールが怖い』という子から、いかに恐怖心をなくしてあげるかを考えます。自信をつけさせてあげる方がいい。ボールを確実に捕れるようになったり、上手に投げられるようになったりする過程を見ている方が楽しいですね」

オリックスで2年間プレーした庄司さん
■「下手な子の味方でいたい」 子どもたちの野球指導に熱意
実際、野球塾ではレベルが高い選手についていけない子どもと積極的に接した。「球を怖がっている子に、怖いことをさせても仕方がない」。キャッチボールなどの通常の練習ではなく、まずは柔らかいゴムボールで球遊び。その中で体にゴムボールが当たっても痛くないことを認識させる。
恐怖心を取り除いてから、ゴムボールで捕球練習する。最初は1メートル。徐々に3メートル、5メートル、10メートルと距離を延ばしていく。少しずつ飛球も交えて捕球の感覚を覚えさせる。慣れてきたら、次は少し硬いテニスボールで同じことを繰り返す。そして軟式球での練習に移っていくのだ。
「ほぼ1日がかり」と根気が必要な作業だが「全然無駄じゃない」と粘り強く取り組む。「将来、野球を続けても続けなくても、そういう過程を踏んでいれば、何かにぶつかった時に頑張れると思う」。教え子が上達するために労は惜しまない。過去の自分の姿を重ねるように育成にあたってきた。
「僕は下手な子の味方でいたい。みんな、やっている以上はうまくなりたい。上手じゃない子を、ある水準まで引き上げてやりたい」。自身も決して野球エリートではなかった。1つずつ学んで26歳でプロ入りした叩き上げの苦労人である。何度も壁にぶち当たりながら乗り越えてきた。だからこそ、基礎を積み重ねることの大切さを誰よりも知っている。
(尾辻 剛/Go Otsuji)








